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2023年8月 1日(火曜日)
■浮牛城(お館)について
上口内要害(浮牛城)
伊達藩は、領内に上級家臣を配置し、館と知行地を与え小領主とし、地域を支配させました。口内は最北の藩境の地で、伊達藩と南部藩を結ぶ脇街道があり、軍事上の重要な地でした。
口内町の中央にある上口内要害は、別名浮牛城(お館)で、城(館)を中心に小城下町をつくり、100人位の武士団が常住していました。
■浮牛城の由緒(いわれ)
浮牛城の伝説では、「安部貞任(さだとう)が築城の際、生牛三頭を埋めて地鎮をしたことで命名された。」とあります。
築城工事に先立ち、土地の神を祀(まつ)る地鎮の儀式に、生きた牛をいけにえとして神に捧げた、立派な由緒です。 浮城(浮き城)とは、内堀や外堀をもつ堅固な城のことで、水掘りで城(館)が浮いたように、浮かんだように見える城です。
■浮牛城の命名
5代藩主伊達吉村(獅山(しざん))公が、享保12(1728)年、奥郡巡視で口内に来訪し一泊しました。
古絵図に「獅山様御成(おなり)の頃浮牛館ト呼玉(よびたま)フ」とあります。由緒等からの藩主の命名と思います。
■浮牛城の大要
浮牛城(お館)は、孤立状の丘陵にあり高さ30m・東西200m・南北130mの平山城(ひらやまじろ)で、本丸・二の丸があり、周囲は水掘り・空(から)掘・土塁(どるい)・矢来(やらい)をめぐらしていた。
本丸には書院と明神社があり、二の丸には領主の御住居(おすまい)と土蔵と山王社、それに馬場と的場(まとば)があり。大手門・西門・東門(土門)がありました。 城下は、武士居住の小路(こうじ)(西・袋・向・四軒・中・八谷崎等)と町組(荒・新)があり、それに御百姓で伝馬(てんま)担当の新町に分けて、城下町を形成していました。
■浮牛城の領主
中世浮牛城には口内氏がいましたが、天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置きで、追放され南部領へ移りました。
伊達領になった口内領主には、初め瀬上(せのうえ)氏(一家)次に小梁川(こやながわ)氏(一家)・藤田氏(一家)・田手(たで)氏(一門)・古内(ふるうち)氏(着座)と代わり最後は中島氏(一族)で、明治維新をむかえました。
瀬上氏と小梁川氏は、慶長5(1600)年の和賀の兵乱(一揆)に加勢し敗れました。 藤田氏の寛永19(1642)年、藩境塚の築造と検地があり、田手(改伊達)肥前宗房の長子は、4代藩主吉村です。
古内(ふるうち)志摩(しま)は藩奉行(はんぶぎょう)で、寛文事件(伊達騒動)の唯一人の生き残りでした。
■中島氏代々
初代宗意(むねもと)は、正宗軍団の侍(さむらい)大将で軍功をあげ、御書(感状)を賜りました。<桜岡神社の神宝>2代意成(もとしげ)は、藩奉行として活躍(350貫文)瑞鳳殿と仙台東照宮の石灯篭に、その名が残っています。
5代利成(とししげ)は、元禄8年(1695)加美郡小野田から、上口内要害に入部しました。(252貫文)8代以成(のりしげ)の時、後継願の遅れで、168貫文余に減禄となりました。
14代外記(げき)意時(もととき)は、御定書(ごじょうしょ)(家宝)を示して実践し、後に藩奉行となり、明治元年9月仙台藩の降伏を進言しました。15年兵衛之介意(もと)徳(のり)は、戊辰(ぼしん)戦争の大隊長で、口内武士団50人を引き連れて、白河へ出陣するも敗れました。
■口内武士団
口内在郷武士団は、一家・五家・着座・御小姓(おこしょう)組・御徒(おかち)組・御足軽・御預(おあずかり)御足軽と家格が分かれます。
禄高の平均は650文(六石半)で、内1/ 3 がお蔵米(くらまい)支給で、三分の二は村内に手作(てずくり)地((さく))(田畑)を与えられ耕作し、半士半農で屯田兵(とんでんへい)的でした。 天明の大凶作後武士内職として口内傘作りをはじめました。
戊辰戦争(明治維新)後、武士廃止となり、屋敷、住居、手作地(田畑)を与えられ、全員帰農土着しました。
■現在の浮牛城
明治6(1873)年、上口内小学校が、二の丸に創立されました(~明治41年まで)。
近年、浮牛城趾は1部北上市の農村(史跡)公園として町民により整備され、現在、口内町自治協議会によって、浮牛城を中心とした、絶滅の危機にある「日本メダカ(黒メダカ)の薗」、日本古来の「炭焼き」を含めた公園化を進めている。
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